延暦七年 沙門浄心和尚開基。正徳3年八葉山蓮華峰寺の末寺となりました。近くを流れる泉財川は、阿弥陀院の山号、泉財山からきたものと思われます。そのころの阿弥陀院は今の小木町の入口、羽茂と小比叡に別れる三辻の付近にありました。この寺は過去帳によると延宝三年(1675)のところに「当院第二世宥雅」という書きつけがあるので、この一代前、第一世の時今の場所に移って、新しい寺をかまえたものと思われます。つまり、元和、寛永のころ、この寺が建てられたと考えられます。いろいろと説があり、この寺はもと蓮華峰寺の境内にあったようで、今もそこには阿弥陀院跡というところが残っています。そこから一度木野浦の今の羽茂、河原田線の分岐点あたりに所在を移し、さらにそこから小木町の現在地に所在を変えていったようです。
天正15年、当国地頭と上杉景勝が一戦を交え、数々の寺宝や書物が紛失するという憂き目にあいました。又、文政七年(1824)、江戸時代の小木大火の中でも名だたる有名な阿弥陀院火事がありました。そして、明治元年に廃寺となり寺僧帰俗しましたが、幸いにも明治11年、許可を得て復興が叶いました。
毎年2月15日に小木町漁業協同組合漁業者への大漁祈祷会として、大般若六百巻読誦法要が厳修されています。



小木地区にあるお寺は佐渡の他地区にあるお寺と違い、他国の船乗り達の名前が過去帳に残されていることです。他国人の場合、戒名や没年が記された過去帳はそうそうどこにでもあるものではありません。阿弥陀院の過去帳には例えば、天明八年十二月 寒空道喜信士 讃州粟島 貞次郎という記録が出てきますが、この場合亡くなった月が十二月ですから、この年の秋遅く、佐渡小木港に寄港し、そこで病気の重い貞次郎を船からおろし、養生するよう手配して船は西へ去ったと思われます。貞次郎は宿主の手で医者にかかったのですが、ついに12月、あの世へと去りました。生前、家が真言宗であったため、阿弥陀院で荼毘に付されました。寺の僧により、寒空道喜信士の戒名が与えられたこと、又彼の出身地が佐渡からは遠い瀬戸内海に浮かぶ粟島であったことなどがこの過去帳からわかります。



小木祭りの日、阿弥陀院境内の稲荷神社から獅子舞がでます。稲荷がまつられるとき、その講中によって獅子舞が祭りの出しものになったのでしょう。


もともとは稲荷町の稲荷神社のみの神事芸能でしたが、現在小獅子舞は稲荷町の住民によって、8月28日から3日間行われる木崎神社の例祭に奉納されます。江戸時代に江戸か東北からもたらされた芸能のようで、8月16日に獅子宿(町内順送りで二軒ずつ)に集まり、稽古します。二軒の家では獅子頭、装束、楽器など預かるなど一切の世話をします。小獅子舞への参加は町内の男子全員で、笛方には子ども、踊りには青年、歌は壮老年とされています。28日に獅子宿に集まり、獅子頭を箱にのせ、お神酒を供え、路次楽をはやしながら稲荷神社へ向かいます。稲荷神社に到着すると本殿までうちこみ、社前の庭で宮踊りを奉納します。歌は一番から十四番まであります。この宮踊りのあと、阿弥陀院に行き、寺踊りを奉納することになります。そして稲荷町全戸に町踊りを踊ります。踊りは三つとも大差なく、内容は三匹の親子の鹿が遊んでいると、途中霧のため仔鹿を見失ってしまうが、親鹿が仔鹿を捜し求め、ようやく姿をみつけ、喜び、乱舞するというものです。町踊りが終わると伊勢音頭をはやしながら獅子宿に帰り、直会(なおらい)をすませ、1日の行事は終わります。こうした獅子頭を神としてあがめ、獅子舞をする風習は佐渡ではすでに天文元年の古文書にもでてきます。
阿弥陀院本道を望む
本道正面
七地蔵
贈り物の水子地蔵
正門