多聞寺の見どころ 多聞流健康塾 参拝のご案内 English

◆多聞寺について


大同年間創立、初め天台宗で平泉寺といい、当地の毘沙門天別当でした。天正3年、地頭米津氏が東平泉の地に再興し、当時世尊院、宝安坊、東坊、松本坊、椿久寺、宝珠院と末寺七坊を有しましたが、上杉の兵乱によって寺及び東坊の他皆廃絶し、遂に真言宗に改め、慶安に至って東坊も真光寺に移されました。萬治3年快祐和尚を中興第1世とし、これより如意山宝珠院多聞寺と号するようになりました。明治元年の廃寺の難を免れ、法灯を継承しています。
本堂は寛政元年に(1789年)改築され、その右手に毘沙門堂がありますが、そこの本尊毘沙門天は聖徳太子が柳の霊木を得て彫ったものと伝えられ、百足(むかで)が侍者となっています。毎年2月3日の宵祭りには、国仲一円の善男善女の参詣で賑わいます。又、奥の院の堂林観音は等身大の古仏で、毎年8月17日のみご開帳されます。
 


◆毘沙門堂と従者の百足
毘沙門天は商売の神様といわれ、別名多聞天、四天王の一つです。587年、聖徳太子が物部守屋討伐の際、四天王の像を戴き出陣し、大勝を得て以来、四天王信仰が広まりました。その後太子は柳の霊木で毘沙門の像を二体彫刻し、元木の像は当毘沙門堂に納められ、末木の像は京都の鞍馬寺に安置されました。現在、当毘沙門堂の本尊は延暦16年(797年)9月3日に天台の儀真僧都という坊さんが佐渡へ渡り奉安したものといわれています。
以前毘沙門天は平清水の鎮守でしたので、平清水区民は毘沙門天の氏子として柳の木の下駄ははかなかったといわれています。

縁日は2月と9月の3日、特に2月の縁日には2日の晩からおこもりがあり、3日の早朝にかけて近郊近在から老若男女が集まり、商売繁盛、家内安全を祈願し賑わっています。又、百足は商売の神様である毘沙門天のお使いでもあり、「お金が授かる」といわれ重宝されています。


年に一度ご開帳される毘沙門天
 


◆百足清水


江戸時代の「巡村記」に毘沙門堂前に百足杉あり、杉の腰に池あり、その流れを百足水というと記されています。毘沙門天のご加護から、豪雨で増水することもなく、旱魃にも水かれることなく、百足清水はこの地域の田畑を潤しています。このようなことから、この地域を平清水と呼ぶようになりました。

 


◆百足杉


承久のころ順徳上皇が行啓の途中、藤津川をご覧になると、百足杉の波紋が立っていたので、「この川の上流に毘沙門天が鎮座されておられるのか」とお供の者にたずねられた。当時村々は大旱魃で百姓たちが苦しんでいたので、この毘沙門堂にお立ち寄りになられ、帝は親しく毘沙門天に雨乞いのご祈祷をされました。この時杉を植えられて百足杉と命名され、今では百足の宿る神木として親しまれています。

 


◆堂林観音


行基菩薩が諸国巡りの際、ここに立ち寄られ、不思議な瑞光を放つ古木から千手観世音菩薩像を刻み、開眼供養されたと伝えられています。神亀元年(724年)5月17日開基、御丈6尺2寸(約2メートル)のこの像は天正年間の戦乱にも無事難を免れ、安産をはじめ霊験あらたか、毎年8月17日にのみご開帳されます。
堂林観音は佐渡西国観音霊場第33番結願札所でもあります。

 


◆平清水大師堂(大師教会)

もとは名古屋の鬼頭龍山上人が諸国を行脚し佐渡に渡り、托鉢をしながら布教に努め、このお堂を開きました。大東亜戦争中にお堂の統合が告示され、その際「密厳布教所」として寺院と同格になり、現在は通称大師堂、正式には大師教会と呼ばれています。
お堂の縁日は毎月21日、信者は佐渡全島にわたり、特に海岸地域に多いようです。堂内には明治33年に龍山上人によってもたらされた「大般若波羅密多経」が収蔵され、境内には信者によって寄進された石塔や龍山上人の顕彰碑があります。ここのご本尊は弘法大師です。

大師堂とそこへ続く階段