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真田寺の由来
 

弘仁2年開基。昔、崇神天皇の御代(西暦紀元前97年)大彦の命が北陸道を平定された時、佐渡の島へも渡られて島内を巡視せられたうえ北山、屋敷ケ原という所に御座所を定められ、全島をご覧遊ばれて統治せられたと言われています。

この故事によりそのほとりに仏堂を建立しましたので、仏が峠とも言われていますが、本尊は地蔵尊、他に不動明王と虚空菩薩が祀られていたと言われています。この三尊は行基菩薩の御作であると伝えられています。

その後弘仁5年(810年)山の上遠く人が通わぬ地に長い間建てられていたため風雪で御堂が甚だしく損傷し、それを憂えた村人たちが在家の地に移設、清水野の五月縄手という所にこの御堂を建て、田中坊と唱え奉ったのが、この寺の草創です。右の五月縄手という所は現在、清水野へ渡る道のほとりに在る田地で田中坊跡と言われています。土地台帳によると、真光寺村元禄7年の萩原近江守検地の御水帳、及び慶長5年豊臣秀吉の指図による川村彦左衛門検地の古検地帳に田中坊跡という字名が書かれています。

天正17年(1590年)上杉景勝の佐渡攻めで、本間一族は悉く滅ぼされましたが、この戦果は厳父上杉謙信の遺徳と、この島唯一の高山、北山権現の加護によるものなりと、厳父、不識院殿真光謙信大居士の戒名に因由し真光寺を建立、北山は北陸道総祈願所として併せて謙信大居士の菩提を供養されたといいます。そして第五十五番円照寺とともに大佐渡唯一の金北山大権現別当元真光寺の寺家となりました。
真光寺寺家八ケ坊を新たに設けるにあたり、その一つに編入された田中坊は、一時本坊のほとりに移され、その折三体の仏像のうち、不動尊(一尺5寸)は上の坊の本尊とし、虚空蔵尊(一尺一寸)は東の坊に譲り、将軍地蔵(19寸5歩)のみを本尊として祀りました。そして真光寺住僧の隠居寺として歴代社僧は7月23日に金北山御縁日に登山して、翌日下山の節田中坊に立ち寄り、将軍地蔵本尊祭りを行っていたといいます。

田中坊が現在仲野の地に移築されたのはいつの頃かわかりませんが、以前ここは地頭本間一族の古城であったふしがあり、本間氏滅亡とともにこのあたりが寺領とされたようです。

この地に水利が開かれ真光寺、二宮、市野沢、上矢馳四ケ村に亘る大きな川が東方約200メートルの田圃の中を流れて居ました。そこにトドメキという水堰があり、庶民は水の恵みに感謝して石仏の聖観音を祀っていました。幕末から明治にかけて世情は廃仏毀釈の行き過ぎた悪弊に破砕され、明治元年、本寺真光寺及び寺家八坊は悉く廃寺となりましたが、いつしか失われていき、当寺も明治2年から廃寺とされ、明治12年に至って漸く上の坊、東の坊、坂本坊を合わせて再度従前の田中坊の名で復旧、法燈を灯し、昭和17年、真田寺と改称されて今日に至ります。同十年、昭和55年、この地一体は土地改良の基盤整備によりトドメキの堰も消え、百余年前庶民が花を供えた礎石の跡は今は誰一人知る人も無いようです。
真田寺本堂

本堂内部
 
弘法大師像
修行の姿をしている修行大師です。
   
四国八十八ヶ所ご本尊
 

平成12年11月本国四国八十八ヶ所巡拝の際、各寺院お大師よりお砂を受け持ち返り当山石仏に治め、四国参拝が出来ない方や全部参拝出来なかった方のためにと寄進されました。

 
真田寺に来てこれら石仏を拝めば、四国八十八ヶ所巡りをしたのと同様のご利益があります。
 
また、境内には弘法大師法号塔もあり、同様に高野山へいけない方のために、高野山よりお砂を受けてきて治めています。