養和元年、佐渡に流された文覚上人の開基とされ、本尊脇には上人の位牌が祀られています。上人が流罪となった正治元年から赦免となった建仁二年まで、その間3年9ヶ月滞在した史跡で、奥に鍋倉の滝があります。上人はこの滝にうたれて荒行を続け、草庵を結んで修行したそうで、近くの滝の側壁には文覚上人が彫ったとされる素朴な不動明王の石仏が祀られています。附近の山中には四基の石積があり、経塚とも高弟の墓とも伝えられ、又、境内附近には上人ゆかりの足洗池や腰掛石などが残されています。寺号の文盛山(もんせいざん)の文、は文覚上人からとったそうです。



文覚上人は俗名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)と言い、佐藤義清(後の西行)とともに、鳥羽天皇の皇女上西門院に仕える北面の武士でした。若かりし頃、架裟御前(けさのごぜん)と恋に落ちますが、彼女は同僚の源渡(みなもとのわたる)のもとへ嫁いでしまいます。架裟と添い遂げようと思った盛遠は源渡を亡き者にするため、架裟に手引をさせようとします。ある夜、手引された盛遠が家に忍び込み、夜具の中に横たわる渡をめがけ、刀で突き刺します。ところが夜具をはいで見ると、そこには血まみれの架裟が横たわっていました。夫を死なせるに忍びないと、架裟が身代わりになったのです。愛する人を失い、また罪の深さを懺悔した盛遠は、発心し出家しました。
 

正門(写真下)鐘楼より本堂望む(写真上)
森林を抜ける遊歩道を進み、その先に鍋倉の滝がある
 


出家した文覚は那智の滝で荒修業をおこない、十三年間にわたり全国各地の山岳で修業を積みます。凍える日も日々滝に打たれて何度も死にそうになったといいます。修業を終えた文覚は、仁安三年(1168)に高雄の神護寺を訪れますが、荒れ果てた寺の姿を見て、この寺の再興に生涯の悲願をかけようと思い立ちます。
  寺の復興が思うようにいかず、文覚は後白河法皇に荘園の寄進を勧進しますが、結局、強訴の罪で伊豆に流罪されます。その伊豆で同じく平家によって流されていた源頼朝と運命的な出会いをすることになります。
文覚は頼朝に平家を討つことを勧めます。ためらう頼朝に、後白河法皇の院宣を入手し、決意を促したとまで伝えられています。五年後の治承2年(1178)に許されて高雄に帰りますが、その間も、頼朝が挙兵するように画策していたとも伝えられています。
  やがて平家が都落ちし、頼朝による鎌倉幕府が樹立されます。丹波国宇都庄(吉富本庄)が神護寺に寄進され、次第に寺の再興も軌道に乗ります。しかし、正治元年(1199)、文覚上人80歳の頃、頼朝が急死すると、反幕府の実力者・源通親の陰謀により捕らえられ、今度は佐渡へと流されます。三年後に許されて京へ戻りますが、三度目は後鳥羽上皇により謀反の意志があるとみなされ、元久二年(1205)に対馬に流されることになります。そして、鎮西へ向かい、病気のため渡海することなく、日向の地で逝去します。やがて文覚の遺骨は弟子の上覚によって、都へ持ち帰られ、今も神護寺の山頂に静かに眠っているのです。

盛遠が十八歳で出家したことは事実で、出家の理由が不明なことから、このような物語が作られたと思われます。