佐渡國 正覚坊
境内のみどころ 参拝の御案内 english



薬師十二坊由来

昔、金北山の西三本樽峰(二の岳)を村人は「薬師の峰」と呼んでおました。弘仁元年(810年)の頃、紀州高野山から薬師如来の尊像がそこに飛来し、毎夜光明を放っていたところ、薬王寺の開基、快祐がその薬師如来像を見つけ、薬師堂を建立してお祀りし、別当となりました。その後弘仁5年、薬師十二神将になぞらえ、その里寺として新保川流域に薬師堂を中心とする十二の寺院が建立され、「薬師十二坊」と呼ばれるようになりました。いずれも真言宗で、慶宮寺の末寺です。正覚坊もその一つで、宝永7年(1710年)に末寺となり、宝暦寺社帳に慶宮寺門徒と記載されています。「門徒」は寺格の一つで末寺の一種ですが、真言宗の場合、厳密には寺家、末寺、門徒に分けられ、門徒はその中でも寺格が一番上です。
   
明治維新により、新政府は古代から行われてきた神仏習合を禁じ、神仏分離例により神社から仏教色をことごとく排除、明治元年11月21日には廃寺令が布告され、寺院整理の強行方針により薬師十二坊はすべて廃寺となりました。しかし、この廃寺令により、十二坊を菩提寺としていた島民の負担は逆に増大、葬式や仏事には遠くの本寺慶宮寺に頼まねばならず、その連絡だけでも容易ならざる状態でした。又、本寺も仏事の執行に支障をきたすようになりましたので、同年4月檀信徒の努力により、廃寺復興願いが出され、薬師十二坊のうち正覚坊は最も早く復興しました。十二坊のうち復興が叶ったのは5ヶ寺のみ、つまり半分以上が衰微し廃寺となったわけです。うち廃寺となった円福寺の本尊薬師如来は正覚坊へと移されました。
   

正覚坊画屏

画壇の巨峰土田麦僊が小僧生活を過ごした寺としても知られ、本堂には麦僊が描いた障子画が残っています。境内から少し歩くと開けた場所から金北山全景を拝め、今でも春夏秋冬、それぞれ表情の違う美しい金北山の眺望を楽しむことができ、その頃から正覚坊が絵画習作に適した場所にあったことがうかがえます。
   


土田麦僊について

明治20年2月9日(1887年)生まれ、本名は金ニ。当寺で小僧生活を過ごしましたが、絵の道を志し、明治33年京都に出て円山四条派の鈴木松年に弟子入りし、その後竹内栖鳳の門下に入り、麦僊と号すようになりました。明治40年「春の歌」で新古美術展にデビュー、大正4年には「大原女」を文展に出品しました。麦僊はルノワールやゴーギャンなど印象派絵画に傾倒し伝統的な日本画に西洋絵画の重厚なマチエールや合理的な空間把握、幾何学的な構図などを取り入れた、新たな絵画の創造を目指し、大正10年(1921年)に渡欧、約1年半西洋絵画の研究と制作を行いました。この間ルノワール、ポール・セザンヌなどの西洋絵画を収集しています。例えば現在、大原美術館にあるセザンヌの『水浴』は、麦僊の旧所蔵品で、彼が自らへの刺激とするため常に画室の壁に掛けていたということです。麦僊の代表作、「湯女図」(ゆなず)(1918年)は東京国立近代美術館所蔵、重要文化財に指定されている他、東京の山種美術館には麦僊の作品が多数展示されています。昭和11年(1936年没)